Trans Eurasien Expreß seit 2002

 
erscheint i.d.R. vierteljährlich und behandelt bedeutende und/oder interessante Eisenbahnen und sonstige Transportmittel in der Welt, mit Vergleichen zwischen Japan und dem Ausland, Geschichts- und Kulturvergleichen - je nach Thema der Ausgabe. Alle Fotos, Ton- und Videoaufnahmen wurden vom Author selbst aufgenommen, soweit keine fremde Quelle ausdrücklich vermerkt ist.

Mikio Tanaka

 
     
   


 
9.欧亜国際連絡列車残照

- 敦賀とウラジオストク寸描 -
Eurasienverbindungszug in Japan (1912-1940)
今回の取材地: ロシア 日本 中国 フランス


左:敦賀航路開設時のポスター。右上:再現された旧敦賀港駅舎。右下:ウラジオストク駅。
Links: Die Seeroute zwischen Tsuruga (rechts oben) und Wladiwostok (rechts unten)
wurde 1902 eingerichtet und war die kürzeste Verbindung zwischen Japan und Europa.

かつて日欧の国際線の日本区間として走った欧亜国際連絡列車 (1912-1940) と、ユーラシア大陸の東門・ウラジオストクの今日の乗物情景をまとめてみた。

 
1 シベリア鉄道 Транссибирская магистраль
 

明治維新政府は鉄道敷設に高い優先順位を置き、早くも明治2年には東海道本線と、米原から分岐して敦賀に向かう支線(後の北陸本線)の建設を決定した。日本の新旧首都を結び後の日本の大動脈となる、東海道本線と同時に敦賀支線の建設を決めた点が重要だ。将来のシベリア鉄道の建設を見越した日欧国際旅客輸送の準備か、膨張を続けるロシアに備えた日本海防衛の布石だったのか。敦賀支線は東海道本線全通(1889年)の2年前に部分開通し、柳ケ瀬トンネルが完成するまでは徒歩連絡(庶民は徒歩、裕福な者は駕籠で山越え)だった。文明開化に沸く都会を一歩出れば、そこはまだ江戸時代だった。



左上:訪日時のニコライ2世(Wikipediaより引用)。上:聖ペテルブルグで
公開されている日本海海戦生き残りの防護巡洋艦、アヴローラ(第50話後半参照)。
Die Aurora, das den japanisch-russischen Krieg überlebte, liegt heute in Sankt Petersburg.
Links oben (Quelle: Wikipedia):Nikolaus II. der auf dem Weg zur Grundsteinlegung
der Transsibirischen Eisenbahn in Wladiwostok, in Japan Halt machte.

帝政ロシアは明治24(1891)年、露都モスクワと極東を結ぶシベリア鉄道のウラジオストク側からの起工式を行ない、時の皇太子ニコライ2世が起工式の前に訪日した。彼は日本と不幸な腐れ縁があり、まず大津でテロに遭い負傷している(導入したばかりの近代刑法では傷害事件では死刑にできなかったが、神戸港にぎっしり入港していたロシア艦隊に恐怖した明治政府は犯人を超法規的措置で死刑にしようとしたが、時の大審院(今日の最高裁)長官が政府の容喙を拒否して司法の独立を守った歴史的事件となった)。皇帝即位後は日露戦争を遂行し東洋の無名の小国に負けたのみか、虎の子の第1・第2太平洋艦隊(日本側呼称は旅順艦隊・バルチック艦隊)の大半を失い、この武威失墜も契機の一つになったロシア革命で家族共々処刑されロマノフ王朝のラストエンペラーとなった。



上:欧亜連絡概念図(敦賀鉄道資料館にて) 左下:愛新覚羅・溥儀も利用したという、旧
東清鉄道の展望車が展示されている 聖ペテルブルグ鉄道博物館は、第50話でご紹介する。
右下:大連に残るロシア風の旧東清鉄道ビル。このレプリカが門司にある。
Da die Chinesische Osteisenbahn eine Abkürzung der Transsibirischen Eisenbahn - die einen
großen Umweg rund um Mandschurei machte - ermöglichte, hatte Russland die Rechte von
der Qing-Dynastie erworben. Unten links: der Aussichtswagen, der heute in Sankt Petersburg
steht. Unten rechts: das verbliebene Bürogebäude der Gesellschaft in Dalian.

極東[註1]日本から当時世界最先端地域だった欧州までは横浜~太平洋横断~アメリカ大陸横断~大西洋横断という大冒険ルートが最速(片道約1か月、インド洋経由航路なら乗換無しだが1か月半を要した)だったが、シベリア鉄道は所要時間を一挙に半減させた。ロシア領に大きく食い込んでいる中国東北部(満州)をショートカットする東清鉄道(ウラジオ北西の綏芬河から哈爾濱(ハルピン)を経て満州里で再びシベリア鉄道に接続)は大きな近道で、東方征服(ウラジオストクはvladi征服せよ+vostok東、つまり東征という市名だ)に邁進していたロシアは弱体化していた清朝から東清鉄道の権益を確保(三国干渉の見返り)、シベリア鉄道全通後も急行の多くは東清鉄道を経由した。1912年にオリンピックに初参加した日本選手も開催地ストックホルムまでこれを利用した[註2]

[註1] 「極東」とは、極端な欧州中心の定義で日本人的には嬉しくないが、実は「アジア」も同様だ。ユーラシアという巨大大陸にある多様な文化を「欧州」と「非欧州」にのみ分け、非欧州的なもの全て十把一絡げに「アジア」とする乱暴な定義方法だからだ。
[註2] 但しスウェーデンまで片道総移動時間20日の負担が大きかった為か両名とも完走できなかった。


Im Jahr nach dem Zusammenbruch der UdSSR durften auch Ausländer Wladiwostok betreten und
konnten dort die russische Flotte betrachten, die mit ihren vielen Schiffen den Hafen füllte. Auch heute,
25 Jahre später, findet man noch vereinzelt Fahrzeuge mit Emblemen aus der Zeit des Kommunismus
(rechts oben: roter Stern an der E-Lok, Hammer und Sichel), was aber niemanden zu stören scheint.

建設ルートを遮る南北640kmのバイカル湖は最大深度が1600mもあるので架橋できず、迂回線完成まで冬は凍結した湖上に直接線路を敷いて列車を走らせた北海の海上トロッコ顔負けの水上鉄道だ)というから凄まじい寒さだ。中ソ関係悪化後国境線から離したルートで完成を急いだ第二シベリア鉄道(バイカル・アムール(略称バム)鉄道)は戦後シベリア抑留された多くの日本人が厳寒期の工事に動員され亡くなったという。戦後、ソ連は軍港のあるウラジオストクの外国人立入を禁止した為外国人はシベリア鉄道末端区間を利用できず支線でナホトカに回されたが、ソ連崩壊の翌1992年に開放され、日本人もシベリア鉄道全線の利用が可能になった。2002年、全線電化。ロシア程の巨大な国(ソ連時代は地球上の陸地の実に6分の1を占有していた)になると体制変更が領土の隅々まで行き渡るまでには時間がかかるようで、ソ連崩壊後四半世紀以上経過した今日でも共産主義時代のロゴ(右上:赤い星や鎚と鎌)が残っている車両が散見された。一時期一種の先祖返りをして帝政時代の国旗色やデザインが多用された(下は郵便車)が、現在は濃淡灰・赤のロシア鉄道RZD新標準塗色に統一されつつある。

 
2 敦賀で欧亜国際連絡列車を偲ぶ
 

20世紀初めに時計を戻す。



上・中:この敦賀港駅再現模型が展示されている敦賀鉄道資料館は、右端の赤レンガビルから
3軒目の旧駅舎を再現したハーフ ティンバーの洒落た建物だ。下:大連機関庫で保存されていた
旧満鉄の 特急「あじあ」牽引機パシナ(現在は瀋陽で保存されている由)。
Oben u. mitte: Modell des Bahnhofs im Hafen Tsuruga. unten: Dampflok des Schnellzugs „Asia“der
Südmandschurischen Eisenbahn im Lokschuppen in Dalian. Gebaut mit den damaligen modernsten
Technologien Japans, steht sie heute in einem Museum in Shenyang.

日中でも鉄道網が発展し、日本からは①敦賀~ウラジオルートの他、②福岡から渡海し南満州鉄道線経由で哈爾濱で東清鉄道に接続するルートもできた。②は更に(i)釜山から朝鮮半島縦断鉄道(この代表列車が「ひかり」と「のぞみ」で、今日の東海道新幹線の列車名の由来ともなった)で奉天(瀋陽)で満鉄に接続するルートと、(ii)旅順か大連から満鉄全線を走って哈爾濱に至るルートもあった。(ii)は日露戦争後ポーツマス条約で満鉄の利権を得た日本が力を入れていたルートで、後年日本の当時最先端技術で作られた特急あじあが速達運転を行ったのも旅順~新京(長春。1935年以降は哈爾濱まで延長)間だった。しかしどのルートも日欧最速ルート設定に関しては哈爾濱から先は東清鉄道とシベリア鉄道に依存しており、満鉄との競合を嫌うロシアの意向を尊重して①が採用され、日本区間は欧亜国際連絡列車と称された。



Eurasien-Verbindungszug im Bahnhof des Hafens Tsuruga

敦賀~ウラジオ航路開設10年後の1912年、新橋~敦賀港を直通運転する欧亜国際連絡列車の運転が始まった。週3往復、新橋~米原間は東海道夜行に併結され翌日昼前に敦賀着、そのまま市内の路面を走って敦賀港着。同日夕方発のウラジオ行に接続し約40時間の航海で大陸に渡った。同列車の片鱗は旧敦賀港駅舎を再現した敦賀鉄道資料館で展示されている古写真で見る事ができる。目玉車両だった1等寝台車の写真は一部木造・ダブルルーフという辺りがクラシックだ。形式名はマイロネフ37というから1・2等合造寝台車だったようだ。1等を示す白帯にSLEEPING CARと英文表記もなされ「国際線」としての面目が伺える。同年、歌人与謝野晶子が夫の鉄幹を追ってパリに行ったのも敦賀・ウラジオ(同市には彼女の石碑が残っている)経由だったが、欧亜国際連絡列車運転開始直前だったので乗継に苦労したと思われる。



左:欧亜国際連絡列車の時刻表。「日本・真斯科(モスクワ)・伯林(ポーランド)・倫敦(ロンドン)・
巴里(パリ)間連絡」と 壮大だ。敦賀鉄道資料館にて。右下:ウラジオ駅で展示されている
蒸気機関車正面中央の大目玉は、2017年の再訪時には赤い星に付け替えられていた。
Links: Ein enormer Fahrplan, in dem alle Ankunfts-/Abfahrts- und sogar die Umsteigezeiten
für die Bahnhöfe Shimbashi (Tokio) - Moskau - Polen - Paris – London aufgeführt sind.

欧亜国際連絡列車はロシア革命後運転中止、その後一旦復活するも今度は第二次世界大戦勃発により1940年に再び運転を中止した。第二次世界大戦は航空機技術を速度・積載量・航続距離・量産技術(1945年3月10日の東京大空襲に参加した大型長距離爆撃機B29は325機にも及んだ)の全てを飛躍的に向上させ、これらは戦後民間機に転用され(空路の大衆化に貢献したジャンボ機ことB747も元は軍用貨物機として開発された)、国際旅客運送の主役は急速に航空機に移行した為、欧亜国際連絡列車は遂に復活しなかった。超音速旅客機の頓挫で高速化はジャンボの頃から止まっているが、現在の日欧間はパリを例に取れば(飛ぶ方向・経路・機材で多少の差はあるが)僅か11時間半前後、しかもビジネスクラス以上はフルフラットが常識となり、隔世の感がある。日欧間が1か月から半日弱になるまで100年もかかっていない。第60話では成田空港の異常な遠さを嘆いたが、当時の成田空港駅とでもいうべき敦賀港駅経由の固い椅子での超長旅を考えれば、全てが許せる。



上:新橋停車場跡に再現された駅舎。左下:敦賀駅~敦賀港の線路はもう使われていないが、軌道は残っている。
右下:当時の列車の灯火は電気ではなくカンテラを用いたが、その燃料を保管した「ランプ小屋」は残っている。
Oben: Der Bahnhof Shimbashi (damals die Endstation in Tokyo), wurde zwar später verlegt, aber heute noch
findet sich inmitten der Hochhäuser ein Monumentgebäude, das an den Originalort des Bahnhofs erinnert. 
Unten: Das Nebengleis vom Bahnhof Tsuruga zum Bahnhof Tsuruga Hafen wird heute nicht mehr genutzt.

敦賀港駅は当初金ヶ崎駅と称した。金ヶ崎は織田信長が九死に一生を得た古戦場でもある。1570年、浅井長政が信長との同盟を破り北陸の朝倉軍と織田軍を挟撃、全滅の危機に瀕した信長を京に逃がす為、木下藤吉郎(徳川家康加勢説も)が金ヶ崎城に籠り、撤退戦で最も損害が多いと言われる最後尾の 殿 しんがり 軍を務めた。もし秀吉・家康が戦死し信長も捕らえられていれば、その後の日本史は別のものになっていただろう。若狭湾西方の対馬沖で戦われた日本海海戦も日本史の分かれ目だったが、バルチック艦隊が目指していたのが敦賀の対岸に位置するウラジオストクだった。2004年・2017年と共に短時間ではあったが同市を訪れる機会があった。

 
3 ウラジオストク駅と空港連絡鉄道
 

第1次大戦直前に改築された現在の駅舎は、昔のロシアの宮殿をモティーフにしたエキゾチックな建物だ。西欧の歴史的ターミナル駅舎に比べると彫刻類は大味だが、くねくねした窓枠形状や色使いが独特だ。



Der Bf. Wladiwostock hat ein exotisches Gebäude nach dem Motiv eines russischen
Palasts. Entsprechend der Bedeutung des Namens der Stadt „Beherrsche den Osten“
zeigt die Decke viele Bilder - Die Militärgeschichte der Stadt haftet auch an der Decke.

駅のホール天井はロシアの鉄道黎明期のウラジオストクとモスクワの様子が描かれている。軍人の天井画の多さも目を惹いた。帝政ロシアの軍人なのかソ連赤軍のそれなのか判然としなかったが、軍事都市の沿革が、駅の天井にも張り付いている。前回の訪問時には無かった、ウラジオ駅とマルセイユ駅・釜山駅との姉妹駅協定締結記念版が目に付いた。皆ユーラシア大陸・大陸フランス・朝鮮半島の東の玄関駅だ。



Der Vorzeigezug der Transsibirischen Eisenbahn, „Russland“ ist
ein Inlandszug, der die weltweit längsten Strecken zurücklegt.

このロシアРоссия号は国内列車としては世界最長距離(9,259km)を走り、モスクワ~ウラジオ間(両駅間の時差は7時間)を隔日運転で6日余で結ぶ。1991年のソ連崩壊の翌年、新ロシア国旗(帝政時代の三色旗に戻った)の白青赤トリコロールに塗装になった。ロシア号はこの5年後に新車に置き換えられた。2週間に1本は平壌行客車も併結されウラジオ北方のウスリースクで分割・併合される。Wikipediaによると、この北朝鮮車は中国経由のヴォストーク号に連結されていたが、中朝間がぎくしゃくしてきた2010年末から中国領を通らないロシア号に連結される事になったという。



Die Inschrift des Gedenksteins besagt “Hier endet die große Transsibirische Eisen-
bahn. 9288 km aus Moskau“. Der Zug der zwischen der Ukraine und Wladiwostock
verkehrte war der internationale Zug, der die längsten Strecken weltweit fuhr.
上:「偉大なるシベリア横断鉄道本線、ここに終わる。モスクワより9288km。」とある。東京~新大阪9往復に相当する距離だ。この碑の左側に進入してきた機関車が従えているコルゲート加工がなされたソ連時代の標準客車は、ウラジオ~ウクライナを結ぶ、当時世界最長距離定期国際列車だった。広大なユーラシア大陸を横切る長旅を終えた乗客が、東欧の空気と共にホームに次々と吐き出された。日本海の潮の香が、遥か極東に来た事を実感させているのだろうか。旅人達は大きな荷物を抱えて早朝のウラジオの町に黙々と散って行った。2014年のウクライナ紛争後もこの列車が運行されているか、筆者は知らない。


Auf dem Zugzielanzeiger am Zug aus Donetsk (oben u. mitte rechts) findet sich neben der Angabe
“Donetsk–Wladiwostock” die Ukrainische Flagge und ein Bild des japanischen Shinkansen Baureihe
100 (mitte links, Bj.1985-92). Ob aus der weit entfernten Ukraine betrachtet Wladiwostock schon fast in
Japan liegt? Unten: Das Bild der BR100 taucht auch auf der Tafel eines Imbiss in Sankt Petersburg auf.

このウクライナからの列車を漫然と眺めていたら、何かが目に引っかかった。合格発表で大勢の名前の中から自分の名前の有無は一瞥でわかるように、自分に関係のある何かは視界の端を一瞬かすっただけでも気付くものだ。ドニエツクからの客車の「ドニエツク – ウラジオストク」というサボ(車体横の行先表示板、上)に、ウクライナ国旗と並んで日本の新幹線100系の絵(中右)が描かれていたのだ。撮影の前年に東海道新幹線を引退した100系(中左、Wikipediaより引用のうえトリム)がドア全開で疾走する不思議な構図だが、大体忠実に再現されていた。遥かウクライナから見れば極東のウラジオは殆ど日本というイメージなのか。後年、聖ペテルブルグの「エレクトリーチカ」(電車)という駅前軽食屋の看板でも100系を見かけた(下)



Die Baureihe ER2 ist ein Elektrotriebwagen für den Nahverkehr, von der zur Zeit der UdSSR mehr als
9000 Fahrzeuge gebaut wurden. Das Gesicht der ersten Fahrzeuge hatte sechs kleine im Halbkreis
angeordnete Fenster, die später dann von zwei einfachen viereckigen Fenstern abgelöst wurden.

ウラジオ駅は「港」の詩的表現と思われる「海の駅Морской Вокзал」に接している。敦賀からの旅行客も、ここに着いて期待と不安に満ちて鉄道駅に移動したのだろう。手前はЭР2型直流(3000V)近郊電車。ЭРはERのキリル文字で、「リガの電車」の頭文字から取った形式番号で、リガ(ラトビア)で製造された。旧ソ連が一時自主開発を試みた高速電車もЭР系列だ(中国同様、ロシアも結局ドイツ等から技術導入した点については第50話参照)。旧ソ連のЭР2は旧国鉄の113系に相当し、1962~84年にかけて9000両以上が量産された。最高時速130kmは同時期以降のドイツの近郊通勤電車の最高時速140km/hと比べてほぼ同等だが、加減速性能は鈍重だ。1520 mmという広軌なので車幅3.5 m弱は日本の新幹線より広いが20mを切る車両長はJR在来線並で、JR車を見慣れた目には視覚的バランスが今一つだ。ЭР2初期車(上・左下)は小窓が半円形に並び、濃緑色は標準色だった事も相俟ってサンダーバード2号のような顔だったが、後期車(右下、モスクワ・ベラルースキー駅で撮影)は平凡な角形二枚窓となった。



Seit 2012 gibt es einen Shuttle-Service zwischen dem Flughafen Wladiwostok und der
Innenstadt. Die alte ER2 wurde umgebaut und Betreiber ist heute die russische Bahn RZD.

2012年、ロシアAPEC首脳会議に先立ち空港駅~ウラジオストク空港(VVO)駅を結ぶアエロエクスプレスАэроэкспрессが開通したので再訪時に乗ってみた。モスクワ市内とドモジェドヴォ空港やシェレメティエヴォ空港を結ぶ空港鉄道とほぼ同規格で、古いЭР2後期型を改造したもので、2等車は3+3、1等車(ビジネスクラスと称する)は2+2の集団見合式座席配置(かなり背を倒した状態で固定され皆ふんぞり返って座る)で車両中央に荷物置き場・ミネラルウォーター給水機・マガジンラック・モニターがある点も同じだ。しかしVVOでは1日5往復しかないうえ停車駅も多く空港シャトルとして及第点をつけ難かったが、湖畔に面した西側の車窓は美しかった。当初はモスクワ同様OOO(有限会社)アエロエクスプレス社が運行していたが、ウラジオに関してはロシア鉄道RZDに移管され、それに伴い深紅(右上、モスクワ)からRZD新標準色(左上)に塗り替えられた。



この過去たかだか10余年のインフラの充実振りは目覚ましい。橋脚間世界最長を誇る斜張橋、
ルースキー島連絡橋(右上)のケーブルはロシアの三色旗の色に塗り分けられ、ロシアの意気
込みが伺える。下:シベリア鉄道との交差も違和感は無く、最果ての鉄道という印象は無くなった。
In letzter Zeit treibt Russland verstärkt die Erschließung des Fernen Ostens voran. Die Straßen bei meinem
ersten Besuch 2004, 13 Jahre nach dem Zusammenbruch der Sowjetunion, waren noch im schlechten Zu-
stand, während sie bei meinem zweiten Besuch 2017, weitere 13 Jahre später, in sehr gutem Zustand waren.

空港方面がぎっしり詰まっている時は逆方向の車線をバック運転で爆走し続ける猛者もいる程渋滞が深刻なモスクワでは鉄道は重宝する。しかしウラジオは郊外道路も鉄道もがらがらで2004年当時の空港・市内間の道路はだだっ広いが中央分離帯も無く舗装状態も悪かった(左上)が、再訪時はがらがらは変わらずだが僅か13年後だというのにぴかぴかの高規格道路に一変していた。極東開発はまずインフラからという事か。

 
4 VVOと空飛ぶナメクジ


左上:新潟空港のメニューで「ソフトドリンク」「アルコール」に続いて「В Продаже(売り出し中)」
という項目があり、コーラフロートを「コーラの中にアイス」と説明してあるのが面白かった。
Das Gleiche bei den Flugzeugen: während 2004 noch viele museumsreife Flieger aus der Zeit
der UdSSR im Einsatz waren, wurden diese inzwischen durch modernsten Maschinen ersetzt.

2004年に新潟(日露併記メニューは日本で初めて見た)から今では珍しい3発機のイリューシン62でVVOを初訪問した時は閑散とした空港で、博物館級の旧型機があちこちに放置されていた。乗り継いだヤクーツク行はカバーの無い鉄道のような荷物棚やキャビン前後に無造作に荷物を放り込んでネットで固定している軍用機のようなワイルドさで、21世紀の航空機とも思えなかった。



2017 fand eine große Internationale Konferenz statt – ein Flughafen voller Regierungsflieger. Da es wenig
Linienflüge in VVO gibt, fallen die Regierungsmaschinen erst recht auf – das Ganze wirkt fast wie eine
Regierungsflieger-Messe. Auffällig war der lange Buckel auf dem Dach des Fliegers des russischen
Präsidenten, der wahrscheinlich gespickt ist mit hochleistungsfähigen Telekommunikationsgeräten.

再訪時の往路は小奇麗なエンブラエルになっていた。VVOは相変わらず閑散としていたが、総じて機材は更新されつつあった。丁度大きなフォーラムが開催中で、ロシアの大統領専用機(IL96)・日本政府専用機(退役間近のB747)・インド空軍機等がずらりと並び(しかもこの種の飛行機は複数で行動する)、一般機が少ないだけにこれらが目立って壮観だった。上:空飛ぶクレムリンとも呼ばれるIL96は短い駐機時間の間もエンジンが保護カバーで覆われ、また機体上部の通信機器が詰まっていると思われる長い連続突起が目立ち、旧国鉄D51のナメクジ型を連想させた。

 
5 鉄道車両日欧直通の夢 - オリエント急行1988と日本海連絡鉄道構想
 

1999年7月18日、敦賀港開港100周年記念事業の一環として品川~ 敦賀港間に14系改造車を用いた「欧亜国際連絡列車の旅」と号する団体臨時列車が運行された。だがこの団臨も、かつての欧亜国際連絡列車も、鉄道車両の海上航送は行なっていない。



Das einzige Mal in der Geschichte, das ein Personenzug aus Europa direkt nach Japan kam, war 1988
die Sonderfahrt des Orient-Express. Bei der Abfahrt vom Pariser Gare de Lyon soll auf der Anzeigetafel
„Orient-Express Ziel Tokyo“ gestanden haben. Der Zug gelangte per Schiff von Japan zurück nach
Europa, nur ein Speisewagen blieb in Japan und dient heute als Café in einem Museum in Hakone.

しかし1988年、民放の開局30周年を記念してベニス・シンプロン・オリエント急行の客車がパリからシベリア鉄道経由で14,600kmを走破して香港まで行き(乗継無し走った最長距離としてギネス記録)、台車交換等改造の上日本で走行するという総事業費30億円のバブル期ならではの大イベントがあった。往路、始発駅のパリ・リヨン駅での発車案内表示板では「オリエント急行 東京行」と表示された由だが、オリエントと言いつつ初めて東洋に来たオリエント急行は日本各地を走行後、船で帰欧した。しかし食堂車1両が日本に残り、箱根ラリック美術館で景色こそ動かないが優雅なティータイムを車内で楽しむ事ができる。車両自体が欧州から日本まで直通する本当の意味での欧亜国際連絡列車は、後にも先にもこれだけかと思われた。



悠久のユーラシア大陸 - 上から西欧、モスクワ、そして極東。ロンドン五輪が開催された2012年
(左上)と終了後(右上)のユーロトンネル・フランス側入口。下:シベリア鉄道の両端、モスクワと
ウラジオストクが描かれるウラジオ駅天井画。手前のウラジオ側には高層ビルが描き足されている。
2016 schlug Russland vor, den Tatarensund und die Soya (La-Pérouse)-Straße zu untertunneln
und den eurasischen Kontinent über Sachalin mit Japan zu verbinden. Die Tunnel unter der Straße
von Dover (oben) und der Seikan-Tunnel sind bereits fertiggestellt, d.h. wenn der Plan realisiert
würde (es gibt zwar viele Probleme zu lösen wie unterschiedliche Spurbreiten und Elektrizifizierung
sowie Sicherheitsfragen) würde es theoretisch möglich, von Tokyo bis London mit einer Schiene zu
verbinden und damit einen Eurasienverbindungszug im wahrsten Sinne des Wortes zu verwirklichen.

しかし2016年、ロシアはシベリア鉄道をサハリン経由で北海道と直結する提案を行なった。ユーラシア大陸~(間宮海峡7km)~サハリン島~(宗谷海峡42km)~稚内間を海底トンネル等で結ぶという壮大な計画で、もし軌間・電化方式等の問題を解決して実現すれば、青函トンネル・英仏ドーバー海峡トンネルを介して東京発ロンドン行の列車も理論上設定可能となる。しかしロンドンとパリ・ブラッセルという大都会同士を直結する後者と異なり、この樺太ルートは貨物中心となろう。船より速い日欧貨物輸送は極東ロシアの発展にも寄与するだろうが、万一有事となれば鉄道での敵兵や戦車の大量高速輸送も可能になる。昔スペイン(1668mm)が地続きの隣国フランス(1435mm)と軌間統一を拒んだのはこの安全保障上の懸念も理由だったし、第二次大戦末期ドイツ降伏後にドイツ戦線に張り付いていた膨大なソ連の大軍が旋回して大陸から逃げ遅れた日本市民に雲霞の如く襲い掛かったのもシベリア鉄道が可能にした。中国の一帯一路構想にせよ大ユーラシアのネットワーク強化は重要だが、安全保障面も含めた慎重な判断が必要だろう。


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資料は各脱稿日現在の該当会社・団体のHP、WikipediaWebsite über die schnellsten Züge der Welt 各所掲のデータを参照したもので、それ以上の検証は行っていない。
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